10/7()-11/30()に開催中の企画展
                                       

「通運丸で結ばれた関宿・野田・流山」・・・海運へのターニングポイント・・・

展示構成は、
  ①和船時代の水運・・・川で結ばれた町/物資輸送の主役 船・・・

②通運丸の就航・・蒸気船/内燃機船・・ 
  ③繁栄する関宿・野田・流山/町の状況

④船の輸送のうつりかわり・・・通運丸の終焉/競合する交通手段と自然災害・・・

              ・・・貿易振興と海運政策・・・海の彼方に・・・
 

・講演要旨  物流博物館・学芸員 玉井 幹司 氏  平成261019()13:30-15:30
   

 レジメによると、和船時代の関宿銚子間(30)下り20時間上り7-8日、関宿東京間(20)下り2(急行半日)上り4(無風時は5-6日も、急行2)を要した。

利根川は、野田の瀬戸以西から関宿までは水深が浅いために、明治の汽船時代になってからは利根川・江戸川の汽船ネットワークから除かれていたようだ。関宿行徳間4時間半の汽船・行徳木下間の9時間の徒歩陸行・木下銚子間汽船の7時間半の計21時間(除、休憩・宿泊時間)を要した。明治16年の陸路連結(22時間、江戸川の加村・新川/利根川の大室・船戸)航運いろは丸、対抗内国通運丸関宿下野田間2時間弱・下野田・三ッ掘の陸路2時間・船戸銚子10時間で計14時間、明治23利根運河開通・26年汽船通行許可直行便で、江戸川の関宿深井間2時間半・運河と利根川の深井銚子間11時間弱の計13時間に短縮された。以下、銚子との関連に絞り下記に纏めてみる。
 

   銚子・東京間汽船航路・・・利根川・利根運河・江戸川・小名木川経由・・・           

下利根航路(利根川の関宿以東)は、明治4年深川中田(栗橋の対岸)間に就航の利根川丸が、明治56月関宿銚子間に出願するも同年7月には布佐銚子間に就航し鮮魚輸送、明治7年盛運丸・衝鳳丸、8年信義丸が木下銚子間に就航、激しい運賃競争を行う。

 内国通運(4年の官営郵便発足に伴い5年江戸の定飛脚問屋が陸運元会社設立、6年太政官布告第230号で12年まで運輸の自由営業禁止・陸運元会社への入社・合併を半ば義務化したため、国内の陸上・水上輸送をほぼ独占水陸輸送の全国ネットワークを完成。明治8年内国通運会社と改称、後の日本通運が「通運丸」を就航させ、明治10東京高浜(霞ヶ浦)6往復、境銚子にも運航するが水深が浅いゆえか不定期であり、毎日1往復木下銚子間・木下高浜(霞ヶ浦)間に運航。
 13年の運輸独占解消後の168以降、東京銚子間航路は、競争相手の航運会社・銚子汽船との運賃・速度競争(上述の陸路連結)が激しくなり、内国通運も利根川の布施/江戸川の加村の陸路連結により両国銚子・両国鉾田間に航路開設する一方、銚子汽船との航路分担協定を締結後は、利根川方面は銚子汽船と木下の連合汽船/江戸川方面は内国通運の分担・連携を行い、利根川の船戸/江戸川の新川と利根川の瀬戸・三ッ掘/江戸川の野田(今上)22時間の陸路連絡で、東京行徳・木下銚子の汽船航路と行徳木下間35キロ徒歩9時間2日間行程が26時間23利根運河開通後船戸乗継ぎ20時間直行便18時間に。
 明治40年頃には内国通運・銚子汽船が同盟し航路を制圧(二分するも)、大正元年内国撤退で銚子汽船の貨物独占化も、
高速・短時間輸送を可能とした鉄道普及による物流革命により、昭和4年の内国(より大正8年「通運丸」事業を譲渡された「東京通船」)・8年「銚子汽船」の旅客撤退で、『下利根航路』はその役目を終えた。

                                           文責 銚子ジオパーク推進市民の会 椿 敬一郎