■ 下仁田 JGN関東大会 (下)
                                  ≪ (中)からの続き ≫ 

帰途にも、下仁田-銚子間を往復する車に同乗した市民の会のスタッフ達と共に、川井の断層」と「下仁田道の駅」と「冨岡製糸場」の3ヶ所に立寄りました。

 川井の断層へ行く際は、前日同様、牧口橋で西牧を渡り、今回は県道45号から右折して、西牧川沿いの小道を北上、善福寺の手前に下仁田GPが建てたジオサイト標識から、長めの石段とやや急な坂道を降りて、青岩が続く河原に到着し、の対岸を眺めました

大北野~岩山断層地図Ed4川井の断層は先ず、西牧川の対岸、諏訪神社が建つ崖面に見えます。
 次に、川の手前の青岩を登って鬼渕(オニブチ)の際まで行き、善福寺側の崖面を振り向くと、対になる断層を確認できました。
 断層の手前は緑色岩で、断層の向こう側は「下仁田層」と呼ばれる2,000万年前の砂質泥岩層です。
 断層部分には黒いガウジ(断の活動によって破砕されて形成された粘土)が見られます。
 断層は川床を通り、対岸の崖まで走っています。鬼渕の川床にも
  図6.川井の断層(赤線部分)引用:『日曜地学散歩』みやま文庫(1971年)    ガウジが確認できるそうです。
 川井の断層は「大野(オギタノ)-岩山断層」の露頭で、これがこの地の中央構造線と見做されています。中央構造線の露頭としては北端に近い位置にあり、この続きは、やや南下しながら東へ伸びて、千葉ないし茨城の海底に到達するそうです。

諏訪神社拝殿彫刻Ed 川井の断層から戻って善福寺の門前を通り、八千代橋を渡って小道に右折すると、諏訪神社の鳥居が見えます。
 分水嶺を超えれば佐久平(長野県)に続くこの地を護る諏訪神社の華麗!!な彫刻は、本殿・拝殿の再建時(1837年)に諏訪から招いた棟梁=矢崎善次と子の房之進・林之丞によるもので、諏訪大社下社春宮(諏訪郡下諏訪町)と同じ大隈流です。
 この諏訪神社と断層を挟んで龍栖寺があり、明治の廃仏毀
(ハイブツキシャク)までは、訪大社本宮(諏訪市)から勧請された諏訪神社を管轄する別当寺になっていたそうです。龍栖  図7.諏訪神社唐破風彫刻引用:下仁田町HP)
四国と同じく、中央構造線周辺ではお馴染みの真言宗なことにも、興味が湧きます。
 因みに、西へと続く中央構造線の端点は杖突(ツエツキ)峠にあり、ほど近い守屋(モリヤ)山は、中央構造線とフォッサマグナの交点の山で、訪大社のご神体山として知られています。

国道254号の【富岡-下仁田-佐久】間は、江戸時代には「岡街道」と呼ばれ、大名の通る中山道とは異なり、商人や女性が多く利用する脇往還として、別名「姫街道」と呼ばれていました。
 今回、下仁田の町中に「姫街道」の標識の石柱を確認することが出来ました。現在、この区間は、上信越自動車道がほぼ並走しています。 

繰糸所_富岡製糸場Ed2次の富岡製糸場では、「東置繭(オキマユ)」と「繰糸
(ソウシ)
見学しました。
 フランスから来日した明治のお雇い外国人ポール・ブリューナが、全体の設計を行い、土地を選定し、地元の工女の在来の糸繰り手法を取り入れて繰糸機を特注したそうです。
 ブリューナ建物の設計を、横須賀製鉄所(現・在日米軍須賀海軍施設)の設計経験を買って、同じフランス人のエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼しました。
図8.繰糸所引用:群馬県世界遺産課のリーフレット)

東置繭所_富岡製糸場Ed2東西の置繭所と繰糸は、木骨煉瓦造りの広大な建物です
 未だ電灯の無かった時代、バスチャンは、工場内に光を集めるべく「トラス構造」を採用しました。室内に柱がなく、天井が高く、大きな採光窓があります。三角形を単位として組まれた安定した構造は、140年を超える長きに亘り、幾多の地震に耐えてきました。

煉瓦は、舞鶴海軍工廠(コウショウ)などと同じく、華やかな「フランス積み」です。余り知られていませんが、この技法は猿田神社(銚子)の先神(センカミ)橋にも採用されています。
 初代場長=尾高淳忠は、石材・木材・煉瓦・漆喰等を周辺地 図9.フランス積み引用:図8のリーフレット)
甘楽郡(群馬県)などで調達ました。           
 煉瓦は、奈良時代に始まる瓦の産地=深谷(埼玉県)から呼び寄せた瓦職人が、鏑川南岸の河岸段丘上の良質な粘土産地=福島(甘楽郡)で、段丘を利用した登り窯を築いて焼成しました。煉瓦を国内で調達したプロセスは、岡製糸場の2年後に竣工した犬吠埼灯台銚子)とも似ています。

 明治初期、生糸増産のために先進地の視察を行う際は、「機械製糸は岡製糸場に、養蚕技術は田島弥平伊勢崎に学ぶ」のがモデル・コースだったそうです。因みに、1反の布を織るには2,700頭の蚕と90kgの桑の葉が必要と言われています。
 富岡製糸場は、1872年図9.参照に国営で開業し、1893年に民間に払い下げられ、三井家など幾つかの企業の手を経た後、1987年に操業を停止しました。
 最後のオーナー片倉工業は、閉業後も当初の工法で修復工事を続け、2005年に良好な状態で岡市に寄贈されたことが、世界遺産登録に繋がったそうです。
 年月と共に風格を増して国宝にもなった建物を鑑賞し、絹織物の輸出が日本の成長を支えた時代に思いを馳せました。
 製糸場の敷地の中を南へ進むと、建物群の外に桜の並木があり、その先のフェンスの下は急な崖になっています。崖下には川幅を増した鏑川が流れ、フェンスを潜って太い廃水パイプが川岸に向けて引かれていました。
 鏑川の南には、上信越自動車道を越えて、正面にオドケ山、左手に東西の御荷鉾(ミカボ)山の樹林に覆われた峰が続いています。いつかは登ってみたいジュラ紀・玄武岩の山々=御荷鉾三山です。

ここで、川に着目して今回のまとめを行います。
 青倉川は、クリッペの見られる跡倉で南牧
川に合流します。神津牧場のある物見山を水源とする西牧川は、川井の断層の上を通過し、青岩公園付近で南牧川と合流して鏑川となります。
 鏑川は、
下仁田駅の側を流れ、岡製糸場の南の崖下を通って、阿久津町(高崎市)で烏川合流します。烏川は、奈良時代に始まる絹織物の産地で、今では大工業都市になった伊勢崎(群馬県)において、利根川に合流します。

 即ち、下仁田に降った雨は銚子で太平洋に注ぎます。
 言い換えれば、『下仁田銚子は川で繋がっている』


     文責画像編集 : 銚子ジオパーク推進市民の会(伊藤 小糸